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岩手県医療局労働組合
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働き続けるために、しなやかに女性部(母親運動、地域運動にも大きな役割)

◆1955年

第1回岩手県母親大会(盛岡)
第1回日本母親大会
スイスの世界母親大会に岩手県から代表が参加

◆1956年

労組婦人指導者研究会

◆1958年

婦人部を結成
第3回働く婦人の中央集会に県医労から初めて参加

◆1961年

婦人部労働講座
世田米病院支部(現・住田地域診療センター)で職場大会の翌日に生休取得

◆1962年

婦人部第5回定期大会で育児時間の問題を初めて取り上げる
全県で交流会開催

◆1963年

婦人部労働学校で保育所設置運動を確認

◆1964年

婦人労働学校、櫛田ふきさんが講演
はたらく婦人の中央集会が分裂

◆1973年

婦人部長会議、生休2日間の完全行使を意思統一

◆1982年

婦人部が医療局交渉

◆1985年

権利アンケートを実施

◆1987年

婦人部結成30周年記念祝賀会、「熱きあゆみ」出版

◆1988年

第34回日本母親大会を盛岡で開催

◆2000年

女性部に名称変更

女性の権利が拡大される一方で、生理休暇など名前だけになっている権利もあります。あらためて各職場で権利の学習をし、みんなで声を掛け合い、権利を行使する取り組みが求められています。


 県医労は、病院の中に組織された労働組合として、たくさんの女性組合員が加入しています。 一九五五年の第5回定期大会以降、各支部婦人部が組織され、年1回の婦人部指導者研修会を開催する中で、 一九五八年第9回定期大会で青年部、婦人部結成のための規約改正を行い、翌年10月12日に、本部婦人部が結成されました。結成以前から、第2回母親大会(東京 一九五六年)、第2回働く婦人の中央集会(東京 1958年)などに代表を派遣。地域の女性運動の中心をになっていました。また、各支部、分会では生理休暇取得などをたたかっていました。

 結成された婦人部では、女性の権利確立、地位向上等で活動を開始しましたが、最初は基本に戻って生理休暇を取ろう、と運動しました。櫛田ふきさんなど有名な女性問題の研究者を呼んで学習会を開催。会議も半徹夜で何回も開催し、「知を力に」エネルギーを蓄え、婦人部役員が各ブロックに説明にも歩きまし

岩手医労連女性労働学級でリース作りに挑戦(2002年2月)

 


地域の集会等でも力を発揮(1999年11月)

た。当時の役員は口をそろえて、「会議が終わると夜が明けていた」と話しています。そして各支部婦人部で最初に生休を取得したのは、婦人部役員でした。 また、「結婚しても働けるように」、というスローガンも掲げられていました。 1人、2人と出産後も働き続けられるようになり、結婚、出産が徐々に当たり前になりました。当時の運動の中心は、自ら権利を拡大した女性役員で、 子育てで哺乳瓶を持ちながら、あるいは夜勤をして寝ないで地域の会議にも参加していました。

 子どもが生まれると、女性労働者が働き続けるためには、保育所が必要になりました。ここでも女性のパワーを発揮。病院の仮眠室で赤ちゃんの保育を自力で行い、病院当局に保育所の必要性を訴えたり、赤ちゃんをおぶって保育所設置のチラシ配布をしました。
 2000年に規約改正をし、女性部に。本部女性部ではアンケート活動、ブロック集会、 学習会等を行い、 各支部女性部では、 生け花教室、 テーブルマナー教室、リースづくり、保育所や母親大会へのバザー、旅行などに取り組み、「しなやかに、したたかに」をモットーとして活動をしています。